紙屋町からわずか数分。本川を渡った瞬間に、空気の温度が変わる。
流川の華やかさは、今の俺には少し重すぎる。ガタゴトと響く路面電車の音が、ちょうどいい子守唄に聞こえる。この街の灯りは、一人で歩く男に優しい。
十日市。川の向こう、路面電車の響く街
本川を渡れば、そこは観光客のいない、静かな夜の入り口だ。
十日市から土橋へと続くこのエリアは、古い建物と新しいセンスが静かに混ざり合っている。
あえてここを宿に選び、あるいは夜の終着点に選ぶ男たちは、賑やかさよりも、確かな一人の時間を求めている。
「一十」。端正なカウンターで刺身と向き合う
一十(いっと)。
扉を開ければ、そこは静寂の入り口だ。
ここの刺身と地酒は、仕事で磨り減った感覚を、優しく、だが鋭く研ぎ直してくれる。
カウンターの端で一人、酒の雫が落ちる音さえ聞こえそうな空間。今夜の「答え」を見つけるのに、これ以上の場所はない。
「鉄板 翔」。一人、鉄板の熱を肴にする
鉄板 翔(しょう)。
十日市の角にある、小さな灯り。
広島の夜の象徴である鉄板を、一人で占有する。
カウンターに座り、目の前で焼かれる音を聞く。誰にも邪魔されない、この「熱」が欲しかったんだ。
「寺小屋」。大人の避難所。
寺小屋(てらこや)。
ここに来れば、間違いはない。
飾らないが、手の込んだ肴。ここの暖簾をくぐる時、俺は一人の男に戻れる。
実家に帰るのではない、大人のための、唯一の避難所。
夜風と、明日への足音
三千円。四千円。
払ったのは金だけじゃない。孤独を楽しみ、明日を歩くための、微かな熱だ。
十日市。路面電車の灯りが消える頃、俺はまた一人で歩き出す。