第1話:会社という看板を外した時、自分に価値は残るのか。

広島、八丁堀。
「魚菜小町」の白木カウンターは、今日も一人で座る俺を静かに受け入れてくれる。
店主の無駄のない手仕事、刺身の角が立った皿。
ここにあるのは、純粋な「本物」だ。

それに引き換え、俺はどうだ。

明日の会議資料に印刷された、俺の名前。
その横に添えられた「課長」という、剥がれやすいシールのような肩書き。
会社という温室を出た時、この名前にはどれほどの重さがあるのか。
ふと、氷の溶けた水割りが、ひどく薄っぺらなものに感じた。

ホテルに戻り、ユニットバスの暗い鏡を覗き込む。
映っているのは、名刺という鎧を脱ぎ捨てた、ただの中年男だ。
もし明日、この会社が消えたら。
もし明日、俺の椅子がなくなったら。
俺を「価値ある人間」として認識してくれる場所は、この広い世界のどこかにあるんだろうか。

転職なんて、今の俺にはそんなエネルギーはない。
ただ、自分の「生存確認」がしたかった。
今夜の酒が空くまでの数分、スマホの画面にこれまでの足跡を記していく。
誰に見せるためでもない、自分の現在地を「外側の世界」に放り投げてみる。

あとは、放っておけばいい。
寝ている間も、明日また頭を下げている間も、
どこかの誰かが、俺という存在を見つけ、値札をつけ、通信を送ってくるのを待つだけだ。

今夜、俺がやったのは、暗い海に自分の浮標(ブイ)を浮かべるような作業だった。
そのブイが揺れるのを待つ。ただそれだけで、明日の会議が少しだけ、どうでもよく思えた。

名前を置いておくだけ。あとは、外の世界から届くオファーを待てばいい。